孤独でもさみしくなかったころのこと(zgkzw)

 中学一年生のころ、昼休みに毎日一人で花壇の草むしりをして過ごしていた。

 当時、一緒にお弁当を食べる友達がいなかった(というか、女子校で過ごした中高の6年間で、その手の「グループ」に属していた時期がほとんどない)。クラスメイトがめいめい仲良しの友達の席に移動してお弁当包みを広げるなかで、私だけが毎日自分の机で一人で食事をとっていた。そしてそのことを、本当になんとも思っていなかった。さみしいとか恥ずかしいといった感情は一切なかった。

 昼休みは45分間ほどあり、お弁当を食べ終わったあとは暇なので、理科室の外のベランダに出て草むしりをしていた。ストレス解消のためなどではない。私は生物部に入っていて、メダカの餌やりと部活で使う花壇の秩序維持を自分の役目だと思っていた。それにもともと自然に親しんでいたから、植物や土をいじるのが好きだった。だから昼休み、晴れの日も雨の日も、それこそ台風でも来ないかぎり、一人でもくもくと雑草を抜いていた。

 春から夏にかけてのハコベやヒメコバンソウの葉のやわらかい手触り、雨のあとの土の匂い、わらわらと出てきたダンゴムシをつついて丸めたこと、セーラー服でしゃがんだときにスカートの裾が地面につかないよう腿に挟んだこと、生い茂りすぎた低木(アカメガシワだったか)を引っこ抜いた拍子に上履きが土で汚れたこと、棘のある草木で足首に切り傷を作ったこと……。もう10年以上前のことなのに、存外克明に覚えているものだ。

 理科の先生方が通りかかっては、しばしば私に話しかけてくれた。先生と二人で横並びにしゃがんで、雑草の種類や生態の話や、部活での家庭菜園の計画の話などをしていた気がする。放課後、まだ熱心に雑草を抜いている私に、理科準備室の冷蔵庫に隠し持っていたアイスをこっそりくれた先生もいた。いま思えば、彼らには私が、教室に居場所がなく校庭に逃避しているように見えていたのだと思う。それで特別に私を気にかけて、入れ代わり立ち代わり声をかけてくれていたのだ。

 ところが、当時の私は、なぜ先生方が自分に干渉するのか理解できなかった。私は草むしりに没頭することで、一人で完全に充足していた。振り返ってみるとシュールな構図である。そのころ、私の世界にはまだ他者が存在していなかったのだ。

 一人だとさみしいとか、自分のことを誰かにわかってほしいとか、他者を求める気持ちを私が持つようになったのは、それからもう少し先のことであった。

 他人と共存する世界に一度開かれてしまうと、もう二度と戻ることはできない。孤独だったのにさみしくなかったころ、一人でも満たされていたころの感覚を思い起こすと、自分のようで自分でないような、でも懐かしいような、不思議な感じがする。

 

文責:zgkzw

薬剤師さんにセルフネグレクトを気遣われた話(zgkzw)

 精神科に何年も通っているが、しばしば通院が億劫になって診察日を先送りにしてしまう。通院のサイクルが乱れると毎日飲まなければいけない薬を切らし、離脱症状で体調を崩す。不眠、めまい、筋肉痛、息苦しさ、倦怠感などの症状が出て、ようやく観念して病院に足を運ぶ。そんなことを何度も繰り返している。

 私は「いつもの薬のいつもの離脱症状」も何度も経験して慣れており、「多少しんどいけれど死ぬわけではない」と高をくくっているので、なんとかしようという内発性がいまいち足りない。ある種のセルフネグレクトの状態にある。

 主治医の先生も先生で、私の不定期通院に慣れきっている。急性期の重い症状で手厚いケアを要する患者さんも数多くいる中で、慢性不調の状態で安定(?)している私の優先度はどうしても低くなる。先生は明らかに私が処方通りに薬を飲んでいないことを知っているのだが、限られた診察時間の中では介入も難しいのか、とうに予約日を過ぎて忘れたころに診察室に現れる私を特に咎めることもなく、毎度「おっ、久しぶり、元気?」などとカジュアルに迎える。

 この距離感は心地よくもあるのだが、一向に先生が私を叱らないことに対して、私は(こちらから迷惑をかけておきながら大変図々しいことに)自分の治療の経過が気にかけられていないような物足りなさも感じていた。

 ところが、一週間ほど前、いつものように数か月ぶりの通院を終えて薬局に行ったところ、馴染みの薬剤師さんに気遣われてしまった。「今回もかなり期間が空いてしまっていますが体調は大丈夫ですか?」ということだった。心配そうな表情と声音に驚いて、申し訳なく感じた。

 臨床の場での自傷行為への対応として、業務的に処置をするのではなく、過剰なほど丁寧に手当てするとよい、という記述を見かけたことがあるが(中井久夫山口直彦『看護のための精神医学 第二版』, 医学書院, 2001, p.211)、その意味がわかった気がした。

 自分の体調について「死ななければよい」と思ってしまうのは現在の私の仕方のない性だが、他人に心配されると事情が変わる。自分の身体は気遣われるに値するものなのだと思うと、大事にしなければと思える。

 いま、私の中には、私の服薬状況に気を配ってくれる小さい薬剤師さんがいる。次の通院日はきちんと守ろうと決めている。

 

文責:zgkzw

大学は学生の行動にどこまで立ち入れるか(浮草)

 日本においても、COVID-19が脅威となって二年が経つ。感染は拡大と縮小を繰り返しながら、今日まで至っている。2020年の春に入学した学生は、もうすでに在学期間の半分を、この不安定な状況下で過ごしていることになる。この状況が急激に好転する見込みは薄く、おそらく来年度以降も同様であろう。大学では、オンラインによる講義が導入され、学内施設の利用やサークル活動は制限された。今でも、当初に比べて多少緩和されているとはいえ、大学の現状は通常と程遠い。2021年末の束の間の収束を見るに、もはや、通常と非常が転回しているかのような感覚に陥る。

 大学の管理は、大学内に留まらない。全国の数々の大学で、学生の移動をはじめとする行動に対する規制が行われている。学生の移動に対する規制の概要としては、次の通りである。

 「緊急事態宣言発令地域やそれに準じるような都道府県への移動を禁止する。やむを得ず移動する場合は届け出を行い、許可を得なくてはならない。」

 たしかに、学内での感染拡大を抑え、早期に「通常」の形態に復帰するため、ひいては学内外を問わず、社会が直面する危機への責務を果たすために、公共性の高い教育機関であり、研究機関である大学が、教職員や学生に対して上記のような管理を行うことは、その是非はともかく、理屈としては理解に難くない。日本におけるCOVID-19の初期の、感染を広げた学生に関する報道と、それに対する世論の厳しいバッシングも、今日の大学の方針に影響を与えているだろう。

 しかし、大学は、それほどまで、学生の行動に踏み込むことが許されているのだろうか。他の都道府県への移動をしないよう、要請をすることはできても、移動を禁止することが許されているのだろうか。「禁止」とは、しないことの強制であり、したがって極めて重い言葉である。このような言葉を用いる際、その正当性については慎重に検討されなければならない。当然、慎重な検討の上での決定であると信じたいが、少なくとも、多くの場合で、十分な説明がなされているとは言い難い。たとえば、学内での感染拡大を防ぐためであるとすれば、なぜ、他の都道府県へ移動した者の一定期間の登校禁止ではなく、移動自体を禁ずる必要があるのか。オンライン化が進んだ今日の体制であれば、登校せずとも受講することは容易であろう。実際に、他の都道府県へ移動を「避ける」ようにとし、移動した場合は、PCR検査や一定期間の健康観察をするようにとしている大学も存在する。大学が、運営のために学生に指示できる範囲は、この程度ではないだろうか。そうではなくて、他の都道府県への移動それ自体が駄目であるというのであれば、その根拠は何か。そこには、先述の、社会への責務云々という理屈しか残っていないのではないか。したがって、大学に公共性があるがゆえに、社会では禁止されていない他の都道府県への移動が、学生は禁止されても良いか否かという論点に行き着く。

 現状が常態化して久しいが、今一度、この是非について、よく考え、問いかけていきたい。

 

文責:浮草

「スポーツはスキャム / スポーツが全部わるい!」草稿

( 20341014日 第188内閣総理大臣 欣憎〼夫きんにく ますお のビデオ演説より抜粋)

 

 日本国民の皆さん。こんばんは。今夜は今までお伝えしていなかった、この国の真実をお伝えせねばなりません。

 

 日本政府もとい私たちはあなた方国民の皆さんを騙していた、いや騙し続けていたと言ったほうが良いのかもしれません。この嘘は国民国家の成立以降*、学校教育、オリンピックといった形として人々の心を蝕んできたナショナリズムのほんの一部にしか過ぎません。しかしこれは何世代もの間、何世紀もの間、地球上の人々の行動を規定し、思考を縛ってきたものの一部なのです。

 

 皆さん…(長いため息をする)…スポーツはスキャムです。

 

 これを見ている中には様々な世代の方がいるでしょう、死にかけの後期高齢者、人生の大部分を仕事に懸けたものの定年になり人生の目的を見失ってしまった既婚男性、お腹の中にいる胎児や日本国籍取得中の外来金魚(あなた方が私の支持層です…!)…少なくともこの国で何年か暮らしてきた方々には既にお気づきの方もいるかもしれません。この国には公然とスポーツという忌むべき怪物が巣食っているのです。狂っているのですこの国は!

 

 甲子園を見てごらんなさい、そこでは学生時代の多くを野球に捧げた学生たちの「汗」や「涙」が讃えられています。彼らはその年の日本一のチームとなるため、大人たちに指導されながら、高校生活の多くの時間を賭けた代償に、勝負に勝ったものたちは15分間の名声を、負けた者たちは球場の土を持って帰るのです。その光景はVTRとして収録され、感動的な音楽と共に日本全国に届けられます。彼らは感動を届ける英雄なのです。これらの茶番は甲子園というイベントをビジネスとして安定させると共に、スポーツに対する過度な権威をもたらしています。

 

 しかし、球児たちを責めてはいけません。彼らもまたスポーツという愛国心形成の仕組みに利用された被害者でもあるのです。

 

 彼らの身に何が起こっているか、皆さん全国の野球部で何が起こっているのかご存知でしょうか、そこでは異常なほどまでに徹底された上下関係、同学年内でのいじめ、コーチからのいびりなんて日常茶飯事*(ほんとかよ)です。野球に限らず、部活顧問からの過度な体罰は多数報告されており、つい先日も顧問の教師による執拗な体罰により死を選ぶこととなった生徒の痛ましいニュースが伝えられました。昨年の統計では部活顧問は体育教師に次ぎ、「職務中に人を殺める職業ランキング」第2位であることが明らかになっています。恐ろしいですね。

 

 これらの問題は全て、スポーツというものが過度に美化され、素晴らしいものとして持ち上げられ過ぎている事によって起こっているのだと私は考えます。

 

<<毎日放課後まで指導を行うも残業代は出ず、休日返上で生徒に付き添う試合会場への交通費もでない部活顧問、こんな酷い仕打ちを受けるのなら、生徒を自らの手で締め殺してもお釣りが返ってくるんじゃないかと思うくらいです。しかし、彼らに誰が同情したというのでしょう?スポーツに励む生徒を指導するという、美しく名誉な行いの見返りに金銭を求めるなんてはしたない!)>>

 

 それは公教育に留まりません!テレビをつけてご覧なさい!オリンピック期間の今(*)なら尚更です!「日本選手がメダルを取った」だの「日本代表としてがんばります」「日本に勇気を与えてくれました」なんていうバカバカしい文言の嵐です。<<試合に終わって最初に日本のこと思うわけないだろ!「疲れた〜」「良かった〜」「マジかよ〜」だろ!(これは一概には言えないのだが)>>思ってもないことを言わされる人、思ってもないことを言わせる人、こんなバカな茶番を続けて、誰が幸せになっているのというのでしょう?....それは今までスポーツに感動してきたあなた方のためです。バカなね。もうお分かりでしょう、これは政府だけの問題ではない。スポーツをダシにして暴利を貪っている企業も共犯なのです。やつらはスポーツなんていうバカみたいな伽藍を厳かに打ち立てて、あなた方を平伏させていたのです。もしかしたらあなた方のほうが、やつらにそう仕向けていたのかも知らんが。

 

 皆さん…スポーツは(疑似)戦争です。毎年毎年、どこの国が勝っただの、うちの国はメダルを何枚しか取れなかっただの、何を熱狂しているのか。戦争じゃないですか。そうなんです。スポーツは戦争なんです。スポーツは合法的に"国家の威信"を示すための手段なのです。メダルの数?敵国の兵士の首を何個跳ねたなんて新聞に書き立てていた数十年前と何が違うんでしょう!「スポーツはナショナリズムかもしれないけど、これはいいナショナリズムだ」??そんなわけがないでしょう、ナショナリズムナショナリズムなんです。いいナショナリズムもわるいナショナリズムもない。題材が軍国主義的なもの*でもスポーツでも中身に詰められたメッセージは同じなんです。同調。均質化。そりゃあ施政者としては便利ですとも。自分たちで決めた「日本人像」に「国民」を同化させ、それのご機嫌を伺っておけば良いのだから、そこから外れそうな人間がいれば「非国民」「人の心がない」のようなレッテルを適当に貼ってやるだけで充分です、後は「国民」という概念を押し付けられた「大衆」たちが勝手に自分たちと違うものとして押し込んでくれるんだから。

 

<<実際、(イギリスでにスポーツの生まれる経緯?)>>

 

まぁこれ位でいいだろ、まぁがんばってくれ。なんでこんなことを教えるかって?決まってるじゃないか、私はもう党を追われる身なんだよ。政権についてるものがこんなことを教えるわけがないじゃないか。利害関係がある人間を信じるな。それだけは言えるね。どんなに「えらい役職」に就いてても、そいつは「その役職に就いてる人間」でしかないんだよ、その役職にとって都合の悪いことは絶対に言わん。これが本当に流れてるのかわからんが、じゃあな、これを手伝ってる人間も「官邸のスタッフ」なんでね。


 本を読み進める能力が欠けているので、裏も取らずにメチャクチャを書いてしまっている、誰か校正*手伝ってくれ、<<>>は無くていいところです、最後に謎の茶番を挟みたくなってしまったのは、自分のノンフィクション文章の引き出しが星新一しかないからかもしれない。 おわり

 

文責: 電気ペンギン(スズメ目カラス科)

受験の季節(浮草)

 今年も受験の季節が巡ってきた。受験には何かと苦い思い出も多かったが、それでも受験を終えた後でさえ、この季節になるとそわそわと血が騒ぐのである。それは決して恐怖や不安を思い出したからではなく、むしろ楽しかったとさえ思うゆえである。

 受験が楽しかったなんて、相当に成績が良かったのかと思われそうだが、実際、そのようなことは全くなく、第一志望校に合格したのは中学受験を最後に一度たりともない。大学受験は一年間、浪人をした末、第一志望校は不合格であり、全く行く気のなかった大学に不本意な入学をした。諦めきれずに、仮面浪人をするがまたもや不合格である。しかも、二年連続で合格まであと一人といった結果であった。このような苦い思い出の詰まった大学受験だが、それでもこの季節を辛いものでなく、楽しいものとして思い出す。もちろん、それは、仮面浪人を失敗した後、別の方法で何とか合格を勝ち取った現在があるから言えることかもしれない。しかし、楽しいというこの気持ちは、実際に受験をしていた当時からある、偽りのない感情である。

 一体、何が楽しいと言うのか。当然、それは受験勉強ではなかった。受験勉強が楽しければ、これほどまで不合格を積み上げてはいないだろう。おそらく、最も楽しかったことは、受験校を選び、出願することであったのだと思う。

 さて、手元にはセンター試験の自己採点の結果がある。普段よりも取れたもの、取れなかったもの、結果は様々であるが、もはやこれらはいかんともしがたい。その結果を大手予備校の合否判定システムに照らして、受験校を検討するのだが、これが楽しいのである。各教科の点数という手持ちのカードを使って、どこであればより有利に戦えるかと考える。もちろん、どこでも良いわけではないから、自身の関心や所在地なども同時に検討する。センター試験の受験前、特に受験勉強を始めるという春先にいくら行きたい大学を考えても、現実味が薄く、成績が届かないことなど往々にしてある。したがって、自身の進路について最も具体的に考えられる機会が、受験校を選び、出願するときであった。

 不謹慎ではあるが、受験校選びのある種のゲーム性と、憧れの大学生活がいよいよもって現実的に見えてくる感覚が、楽しかったのだろう。もっとも、結果的には僅差で落ちて、あのとき見えた未来は訪れなかったのだが。

 

文責:浮草

地方都市で、「駅弁大学」で、どう生きるか(浮草)

 私はいわゆる「駅弁大学」の学生である。「駅弁大学」とは、一県に一国立大学と、まさに駅弁の如く設置されている大学を指す。大方は県名を冠した国立大学と言っても、間違いではないだろう。

 私は、その「駅弁大学」のある地方都市に在住しているが、当然のことながら、首都圏や近畿圏に比べて、文化的な活動との距離を感じざるを得ない。地方都市である限り、ある程度は仕方ないだろうが、それにしても、あまりにも何もなく寂しい。「駅弁大学」もまた、首都圏や近畿圏の大学に比べると、盛り上がりに欠ける感が否めない。

 しかし、たかが「駅弁大学」、されど「駅弁大学」である。例えば、大学当局公認のサークルを見渡すと、そこらの高等学校にもありそうなありきたりな名前が並ぶ一方で、主にボランティア活動を軸として貧困問題や環境問題に取り組むものも見られる。その数は、周辺の私立大学に比べると群を抜いて多い。また、度々、メディアにて取り上げられるものもあった。したがって、「駅弁大学」がその地域における文化的な拠点として、その存在意義を発揮しているとも言えるだろう。

 ただ、その地域の文化的な拠点とまで言うと、これではまだまだ足りないのではないか。「駅弁大学」に限った話ではないが、学生というものは、知への貪欲な姿勢を持って、あるいは、そうあるかのように見せる「背伸び」をして、学問や社会に身を投じてこそではないだろうか。そのような学生がときに社会を動かすこともあったではないか。

 何も社会変革まで成し遂げずとも、難しい哲学書と格闘したり、何かについてああだこうだと議論したりと、そういった空間が、大学には、そして、せめて一県に一つくらいは必要だ。したがって、「駅弁大学」にはそれが必要だと思うのである。

 決して、先述のボランティア活動を軸としたサークルがそうであるとは思わないが、大学が就職予備校と化していると言われて久しい昨今、中には、就職活動のための「ガクチカ」としてボランティア活動を行う学生も少なくないだろう。勿論、そうせざるを得ない学生を責めるわけではないが、しかし、それでは大学がますます陳腐なものへとなり下がっていくばかりだ。

 私は、「駅弁大学」にも、また、地方都市にも、文化的な活動ができる土壌を作りたいと思う。まずは、数少ない知り合いに声を掛け、点と点を結んでいき、一緒に学習したり、交流する機会を作っていきたい。それが定着し、人が人を呼び、広がっていけば、いつしか大学を、社会を変えるうねりになっていくのではないだろうか。そう信じて、私は私の理想の学生像を生きていきたい。

 

文責:浮草

白紙

 白紙というものが苦手である。まっさらな半紙でも、原稿用紙でも、いざ目の前にするとなにか大層な、完璧なものを残さなければいけないような気がしてくる。実際はその逆なのに。
 白紙というものは自分を”中途半端な完璧主義者(*)”にさせる。でもそれはいつか克服しなければいけない。ノートの最初のページ、新品の写ルンですの1コマ目こそ、めちゃくちゃな駄文、駄作で埋めるべきなのだ(なんとなく埋めないとバランスが悪いけど何書いたらいいのか思いつかない余白を残すことを忘れずに、ノートのことね)。どうせ張り切って書いても後で見ればなんでも恥ずかしいんだし。
 話はちょっぴり変わるが、この白紙によってもたらされるプレッシャーは、”不可逆性の恐怖”とでも言うべきカテゴリに入れられるのではないかと自分の中で思っている。
・不可逆性の恐怖→可逆的なメディア、高所恐怖症(失うことの恐怖/飛行機は大丈夫)

(*): 脚注を書けていない

 

 この文章のイントロを書いたのは2021年の12月25日、そしてそれを引っ張り出してきて書き始めたのが2021年大晦日の23時45分!もしかしたら2022年になってからめちゃくちゃ書き直すかもしれないけどそれでいいの!

文責: 電撃ペンギン(ネコ科)