地方都市で、「駅弁大学」で、どう生きるか(浮草)

 私はいわゆる「駅弁大学」の学生である。「駅弁大学」とは、一県に一国立大学と、まさに駅弁の如く設置されている大学を指す。大方は県名を冠した国立大学と言っても、間違いではないだろう。

 私は、その「駅弁大学」のある地方都市に在住しているが、当然のことながら、首都圏や近畿圏に比べて、文化的な活動との距離を感じざるを得ない。地方都市である限り、ある程度は仕方ないだろうが、それにしても、あまりにも何もなく寂しい。「駅弁大学」もまた、首都圏や近畿圏の大学に比べると、盛り上がりに欠ける感が否めない。

 しかし、たかが「駅弁大学」、されど「駅弁大学」である。例えば、大学当局公認のサークルを見渡すと、そこらの高等学校にもありそうなありきたりな名前が並ぶ一方で、主にボランティア活動を軸として貧困問題や環境問題に取り組むものも見られる。その数は、周辺の私立大学に比べると群を抜いて多い。また、度々、メディアにて取り上げられるものもあった。したがって、「駅弁大学」がその地域における文化的な拠点として、その存在意義を発揮しているとも言えるだろう。

 ただ、その地域の文化的な拠点とまで言うと、これではまだまだ足りないのではないか。「駅弁大学」に限った話ではないが、学生というものは、知への貪欲な姿勢を持って、あるいは、そうあるかのように見せる「背伸び」をして、学問や社会に身を投じてこそではないだろうか。そのような学生がときに社会を動かすこともあったではないか。

 何も社会変革まで成し遂げずとも、難しい哲学書と格闘したり、何かについてああだこうだと議論したりと、そういった空間が、大学には、そして、せめて一県に一つくらいは必要だ。したがって、「駅弁大学」にはそれが必要だと思うのである。

 決して、先述のボランティア活動を軸としたサークルがそうであるとは思わないが、大学が就職予備校と化していると言われて久しい昨今、中には、就職活動のための「ガクチカ」としてボランティア活動を行う学生も少なくないだろう。勿論、そうせざるを得ない学生を責めるわけではないが、しかし、それでは大学がますます陳腐なものへとなり下がっていくばかりだ。

 私は、「駅弁大学」にも、また、地方都市にも、文化的な活動ができる土壌を作りたいと思う。まずは、数少ない知り合いに声を掛け、点と点を結んでいき、一緒に学習したり、交流する機会を作っていきたい。それが定着し、人が人を呼び、広がっていけば、いつしか大学を、社会を変えるうねりになっていくのではないだろうか。そう信じて、私は私の理想の学生像を生きていきたい。

 

文責:浮草